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 スロウニンのスロウな生活

〜脳梗塞を体験して〜  by エマソン

プロフィール 
名前:エマソン 生息地:磯子区洋光台(JR洋光台駅が根岸線終点だった頃から)身分:素浪人で余儀なくスロウな生活  モットー:えせ極楽トンボ 趣味:水彩画  写真 パソコン 温泉巡り

2006/9/11

7.ジジ・ババの冷や水

洋光台の1〜6丁目の新しい町が開発された今から30〜40年前、一頃はベビー・ブームというか大勢の子どもが町で目に付いた時期があります。働き盛りの比較的若い世代が引っ越してきたからです。

幼稚園や小学校が相次いで生まれ、中学校も新設されました。正確には分かりませんが学級数もどんどん増加したように思います。その頃の親であった私たち世代は、2世帯つまり自分たちの親が同居している家庭は稀でした。中でも高層住宅の家庭は、その性格上2世帯で住むには多少無理があるのか、当時も今も変わらないと思いますが、分譲個建ての家庭でも親子世代だけの家庭が多かったように記憶します。

幼稚園も小学校も親の参加はともかく、「ジジ・ババ席」すなわち敬老席を設けるということは少なかったようです。勿論盆踊りでもお年寄りの姿は少なかった。従来からの地元、田中や笹下の家庭が併合されている一丁目はまだ多い方でした。

それから何年かして、子供たちが大きくなり大学や就職で家を離れるようになり、町は子どもの数がどんどん減少し、ひところ 盆踊りも中・老人ばかり目立つようになりました。

ところが、いろいろの出来事を経て自分たちの子育てがアッという間に終わり、我に返って辺りを見直してみると、嬉しいことに子どもの数がずいぶん増えたような気がします。朝の通学時間帯、盆踊りなどで顕著になりました。個建て住宅が多い町内で盛んに改築・増築が目立ってきた結果、祖父母(ジジ・ババ)、両親、子供が構成する2世帯家庭が増えてきたのです。この場合、昔と違って今の大抵の2世帯住宅では、基本の生活様式は1世帯いわゆる核家族ですから、ジジ・ババと一緒にご飯を食べ、風呂に入るなど、いわゆる「角突き合せて」の生活場面は少ないのですが、それでもお互い「気兼ね」「トラブル」などが無いわけでは無いと思います。

特に、都市部では核家族中心に住める住環境が得られないための2世帯住宅が多いのですから、「仕方ない」というネガティブ気分は否定できないのです。社会の高齢化が叫ばれ、老人福祉だの、介護だの、ケア・プランなどの重い話題を聞かない日は無いのですから、「お嫁さん」に当たる主婦へ与える不安は、われわれ年寄りの側から見ても大変なものがあるように感じます。

(夫や子どもを愛し、家庭を護るのに一生懸命なのに、自分の親ならともかく、夫のジジ・ババの面倒を見るのはごめんだわ)と内心穏やかで無いはずです。そして(子どもの世話を手伝ってもらったり、日ごろの挨拶をしたり、子どもをしょっちゅう出入りさせたり、おすそ分けをし合ったり、日ごろ親しくし過ぎると借りが出来て、先々面倒を診る羽目になるのでは)という気分もするし、普通の核家族の家庭を持つ友だちなどとの会話でも「大変ね。お気の毒に」などと慰められたりすると余計に不安がつのるのでしょう。

これらの事情は、自分たち世代ですら、すでに経験し悩んだ人も多く、よく分かります。そう思うと年寄りは年寄りで、息子やそのお嫁さんが可哀想で仕方ありません。

人は必ず死ぬのですから、遠くにいても近くにいても、最後はいずれ誰かの世話になるでしょうが、それを身近にいる息子やお嫁さんだけに頼っているわけではありません。しかし「お前たちの介護の世話にはならない」と宣言する勇気もありません。

これに関連して、例えば「向う世間は鬼ばかり」というTV番組があります。あのドラマの話題の多くは、家庭のトラブルを多角的に、反面教師的にいやと言うほど描いて見せて、暗然とした気分にさせ、嫁さんを教育するどころか、ネガティブな面だけを啓蒙するように思えます。トラブルを掘り出して、1回だで解決するならともかく、連続ドラマで延々と続くのは、例えそれがドラマの「手法」ではあったとしてもポジティブには感じません。もっと単純に、明るく、ポジティブに、ドラマを面白くする手腕が無いのでしょうか?

私たち世代は、幼少から日本の敗戦、引き揚げ難民、親子・祖父母とも親戚に世話になり、学校時代に何軒かの下宿家庭(下宿屋でない)の人たちも観察し、自分たちや嫁さんの親と同居して来た経験がある人が多いので、他の世代以上に周りの人の「目をうかがう」気持ちや「気兼ね」を気づかずにはいられないのです。ジジ・ババにも2世帯住宅が理想的だとは思えないことも確かですし、自分たちで生きることが出来る限り、年金、介護保険等の社会保障に頼っていこうと思っているのです。精神的にも、決して子どもたちに頼ってはいないのです。

むしろ、大抵のジジ・ババの夢は健全な孫たちの成長に寄与することだろうと思います。お互い少し気配りで「子どもたち(孫たち)」を、学校生活の「イジメ」などに関係のない、素直で優しい子どもに育てることが出来ると思います。父親や母親が忙しくて遊んでやれない、勉強を見てやれない時など、積極的に善意に満ちた話し相手になることに生きがいを感じているのです。一国の文化の程度は、国民が「どのくらい他人を思いやれるか、他人をゆるせるか」という優しさの素質を持っているかで計れると言います。

2世帯住宅の子どもたちにとっては、身近に「他人の始まりであるジジ・ババ」という有効な教材があるのだと思ってやれば良いのです。例えば一家が外出から帰ってきたとき、子どもたちが留守番のジジ・ババに「ただいま!」と明るく声をかけたとしたとき、「子どもたちが挨拶したから私はいいや」と黙っているのではなく、自分も「ただいま帰りました」と一言添えることが出来ればなんと素敵なことでしょう。ジジ・ババは、親の挨拶が欲しいというより、子どもたちが父親・母親のこの一言でどれだけ社会に向け優しく大きく生長するかということを思っているのです。

子どもたちは、こんな親の姿を素晴らしいと見ているのです。子どもは親が思っている以上に敏感に大人たちの行動を見ているものです。「子連れ狼」の大五郎のように、基本の正義は直感的に察しているものです。「未成年だから判断能力が無い」というのは、一種の止むを得ない大人の方便だと思います。また、そういう風に子どもを教えてはいけないのです。子どもは自分の私物だけではありません。自分を超えていく存在なのですから。

あなた方が、そのことに本当に気付くのは、あなた方が自分たちの孫の顔を見る頃でしょう。「種は発生を繰り返す」とはダーウインが唱えた(人間も赤ちゃんは、お腹の中で、卵の発生からの長い人間進化の過程を胎内にいるときに繰り返して生まれる)という説です。人間、生まれてからも基本的には、それに当てはまらないわけはないと思うのです。

いやー、いけませんなあ! 大分スロウ度が上がってきましたなあ! 歳に免じて、お許しの程。

(つづく)


2006/8/28

6.ナスと キュウリと トマト 

どこにでも転がっていそうで、無いと決まらないのがナスとキュウリとトマト。

今は亡き親父が最も好んだのが、“ナスの塩もみ”だった。大でも小でも、適当なナスを採ってきて(戦後、国民学校3年生のとき朝鮮から引き揚げてから、中学生になる春に両親が買った中古の家には、十分な野菜がとれる畑が付いていた)包丁で軽く、まだらの筋状に皮をむき(半分くらい皮を残して)、5ミリ程度にどんどん輪切りにする。これを山盛りボウルに入れて、塩を振りかけて手揉みにする。

その頃は、それまで住まわせて貰っていた河口の母の実家の近くにも塩田があったし、日本各地にも残っていたから、塩は天然の苦味のある塩だった。今も家では、塩がポイントの料理には、近所の店“バーキング・カフェ”が扱う小笠原の手製塩か、インドの岩塩を愛用する。「藻塩焼く」という古くの日本の伝統的な塩にまつわる言葉があるが、忘れたくない。

写真1揉んでいるとナスから褐色のアクを含んだ水分が出てくる。十分に水気を出し切るように絞る。このまま食べても良いし、軽く水洗いして絞ってもよい。これが親父の大好物であった。だからというか、もちろん自分にも大好物である。適度に残した皮の感触と、さっぱりとした塩味が何とも言えず美味しい。どんなご馳走にも勝って、他の何ものも要らない。キュウリを使っても同様だが、自分はナスの方が好きだ。アクが残っているような大人の感触が何ともいえない。

4年ほど前だったか ひいきにしていた航空会社の旅行クラブの企画で「観光地に行かない旅」といった趣の格安ツアーに飛びついた。高知空港に着くと、一行はチャーターバスに乗り、高知の市内には寄らず、一目散に東に走る。

もうすぐ開通という“高知くろしお鉄道”?だったか、の見学や、岩崎弥太郎生家だとか中岡慎太郎生家に寄った以外は、土地の“ゆずの里”や日本一の“ナスの里”などの協同組合を見学した。ここで、関東にも出回っている“高知のナス”を知ったことが思い出される。その規模たるや半端じゃない!ナスの大工場の呈である。

室戸岬では弘法大師ゆかりの最前崎寺(ほつみさきじ)に寄り、明けの明星に悟ったという岬の洞窟に入った。室戸岬の漁港では定置網の現場まで、特別仕立ての漁船に乗って見学した。超スピードで網の中を逃げ惑う走りのカツオが、網が絞られてきて、行方をさえぎられて止まると、瞬間、命が絶えるという現場を見て寺然の凄さを実感した。写真2

カツオは動きが止まると即死だそうだ。カツオが潔く呼ばれるのはこんなところから来るのだろうと、すっかりカツオが好きになった。漁港に戻って婦人会の提供になる本場のタタキを戴いたのも感激。おまけに室戸沖の海洋深層水をくみ上げているという現場も見学しあらためてその威力を知った。 

宿泊は協同組合の研修所らしかったが、仲間が出来楽しく過ごせた。中に、以前入魂にしていただいていた方が母堂の看護のため広島の郷里に引き揚げる際、お宅を譲り受けたというご夫妻を偶然知り合うことができた。後にも先にも、このようなユニークな温かみのあるツアーは無い。農協旅行に始まり、今やツアーばやりだが、上っ面だけの「見る買うツアー」では得られない旅行を目指したいものだ。

ナスの話から思わず室戸岬に飛んだが、先日、母の二十五年法事に帰省して、ついでに山口県の長門湯本温泉泊まった。 幼い頃からよく来た温泉だが、泊まるのは初めてである。懐かしい湯町の公衆浴場は「恩湯」といって仙人のお告げにより住吉さまが与えてくださったという。ホテルにも温泉はあるが、懐かしいこの温泉に入って帰る夕刻、家内のジンは町の八百屋さんで見事なナスが驚くほど安いのを見つけた。大きい箱の半箱なら売るが、小分けはしないそうである。一箱600円、半端な量では無いそうで、ジンは他の野菜も選んで宅急便に仕立てた。

子どもの時馴染んだ長州ナスが、送料と同じくらいで格安というのだから気が乗ったのだろう、うちは野菜だらけ・だらけ である。早朝、ホテルの7階の部屋から、その八百屋さんの店先を見下ろすと、午前4時半にすでに店は開いており、入荷の中トラックが集まっている。この湯町の旅館やホテルの食材を供給しているのだろう。「だらけ・だらけ」は小さい方の孫娘が発明した「たくさんある」時の言葉である。

そのときはナスの塩揉みを堪能したし、ナス料理オンパレードだった。わが家の「家庭菜園」にはトマト、キュウリは十分にあるが、ナスは植えていない。案外ナスは難しいし、例年、苗を買って作るより安く手に入る。ましてや室戸のナスを見学して、愛着が沸いたのである。

塩揉みのほかは、北海道での自炊で覚えた電子レンジを使っての焼きナスも素晴らしい。 冷やして食すると、恵庭の居酒屋“惚れ太郎”を思い出す。安くて、店の連中が若くて、親切で、自分たちの起業に一生懸命だった。毎夜夕飯に通った。 北の「しめ鯖」、「海鮮ポテトサラダ」、「オホーツクのホッケ焼き」、「惚れ太郎焼き鳥」などなど、思い出すたびにもう一度行ってみたいと思う。

写真3今回のナス騒ぎで、わが家にとっては新しいレシピが出来た。「ナスの芥子漬け」を作って差し上げた近所の方が教えてくださった。出来上がった様子だけで言うと、「ナスとキュウリのぶつきり冷せい」である。ナスとキュウリを冷製にし、酢とオリーブオイルでの味つけが効いていて、美味しい。

身体は不自由で立っているのも辛く、座るのも不自由で、仕方なく横になる。勢い、早く寝るから朝は早く目覚め、腹が減る。リハビリにと、庭で採れるトマトを、麻痺した右手に包丁を持たせ、手を切らぬように注意して、どうにか薄い輪切りにする。それを6枚切り食パンに並べる。ハムがあればハムを、ソーセージなら半分にしてその上に並べる。マヨネーズをかけてトースターで3,4分焼く。

サンドイッチにしないから多少食べにくいが、最高に美味しい。トマトの酸味は焼くことで光る。マヨネーズが酸味と調和して絶妙。思わずコーヒーを淹れる。洋光台のバーキング・カフェのコーヒーがわが家のコーヒーである。 今日も生かして貰い、美味しい食べ物にありつける幸せをあらためて感じる。 

「箸取らば 天地御世(あまつちみよ)の恩恵み 祖先や親の恩を忘るな。 戴きまーす」 五,六十年前の食前の「オマジナイ」である。

・写真1は長門湯本の白木屋グランドホテル7Fの部屋から見た早朝の八百屋さん(白い看板の店)と河岸の足湯

・写真2は室戸の明星岬(弘法大師が洞窟に篭って明けの明星が口の中に飛び込み身体を貫いたという体験をして悟ったといわれる。洞窟前の岬のスケッチ。)

・写真3はナスとトマトの甘酢冷製

(つづく)


2006/8/6

5.タイのタイ、イサキのイサキ

飛びぬけた お魚が 好きな親友がいます。 食べるのも大好き、釣るのも大好きです。 博多に「くえ」(幻の魚といわれるアンコウに似た魚)が取れたと聞くと飛行機か新幹線に飛び乗って博多に「くえの煮つけ」を味わいに行きます。 90歳を越してお元気だった大阪在の父上の存命中は お父上をご一緒するために、新幹線に乗って大阪経由でした。 大分の 関サバ、関アジは自分で釣ったり 刺身を堪能したり します。 「秋サケ」のシーズンには 知床に飛びますし、「桜鯛」(櫻の頃の御前崎のタイ)を追って静岡の御前崎に行きます。 今年などは 旅先のシチリア島から 御前崎に直行したくらいです。 日本中はおろか、世界中に出かけるのです。 ニュージーランドの トロールに出かける、カルフォーニアに釣行する、という具合です。 釣果は 航空便で行きつけの料理屋や自宅や友人宅などに航空便や宅急便で送ります。 度肝を抜くような大きい釣果も稀ではありません。 まるで開高健さんの「オーパイ」さながらです。 いや、それ以上かもしれません。

「タイのタイ」、「イサキのイサキ」という言葉を知っていますか? 私には、彼が教えてくれたのです。 私は山陰育ちですから、魚を食べるのが好きです。 とくに、山陰には刺身より魚の「粗」の方を好む人が多いのです。 今は亡き母などは兄弟が帰省すると、ブリの粗、鯛の粗、などなどを必ず用意してくれたものです。 関西人も 一般には同様のようです。私も住んだことがある北海道では、大体軟骨系の大きい魚が多いこともあり、豪快でまるまんま食べるので魚の食し方も見事です。 サケのチャンチャン焼き、ホッケの丸焼き、ニシンの丸焼き、小さくもコマイの丸干し、などが思い出されます。 健康的な魚好きの子を育てるには、小さいときからまるままの魚を食する癖をつけることです。 父親や母親が、魚の骨を毛嫌いするようでは、いけません。 彼は可愛い一人娘のお嬢さんを、「魚好き」に育てるために、一計を案じたそうです。 これがまた素晴らしい。

どんなお魚にも、「頬」に当たるところに、写真にあるような、魚の形をした骨があります。 カレイ、ヒラメの類は、頭が左右対称ではないので、どんな形なのかは分からないのですが、一匹に2個あるこの骨は、大体その大きさは、魚の全身の大きさに比例しているようですから、釣果の記念にもなります。 タイのこの骨を「タイのタイ」と呼びイサキのこの骨を「イサキのイサキ」と呼ぶそうです。 彼はお嬢さんに魚をなるべく全身か、お頭を食べるように仕向けました。 そして、食べるときに、この骨を探すのが楽しいことを教えたのです。 今は都内の有名病院の管理栄養士として働きスポーツでは社会人フィギュアー・スケートで活躍する お嬢さんの小学時代のノートが、その効果を物語っていて、素晴らしいことだと思います。 魚の名前も同時に覚えるのです。 このごろの都会の子や、若いお母さんは、骨が多い魚を敬遠し、骨付き魚を食べる親でも、子どもには、骨を取ってやるという人が多いようです。 魚の一番美味しくて、栄養が富んでいて、お刺身部分より値段が安い、という 願ったり 叶ったりの部分を好きにさせない、食べない教育をしているようなものです。

そういえば、30数年以上も前、洋光台に越してきたとき、商店街の魚屋に「肝付きアンコウ」の大盛りザルが、買う人がないと見え只同然で売られていて、ビックリしたことがあります。 それで結構鮟鱇鍋を堪能した頃がありますがきっと若い人の家庭が多く、食べ方が分からなかったのでしょう。 ついこの間まで、わが家の大好きな駅前の魚屋さんの「粗」が、割合安く買えましたが、このごろ、ファンが増えたらしく、徐々に手に入りにくくなってきました。 ここの「粗」は、頭の部分でもちゃんと丁寧にうろこが落としてあるから、流石魚好きの心が分かっているなと感心します。 日本人は、これからも魚中心の食生活で健康な身体を作らないといけませんから、是非子どもに骨付きの魚を食べる技術を教えておくのが、親の子への贈り物でしょう。 骨付きの魚を美味しそうに食べる女性を見ると、きっと健康なお子さんをお持ちだろうな、と思いますし、骨があると魚に手をつけない男性を見ると、ああ虚弱児童だなと思ってしまいます。 

春先、彼が釣った大きな桜鯛とイサキが 御前崎から届きました。 自分は病気になって悲しいかな片麻痺の身、大きい鯛を捌くことは出来なくなったので、家内が見よう見まねで捌きます。 大分堂に入ってきました。 丸侭の鯛は古くから神棚のお供えの最たるものです。 冬はタラの粗の煮付け、春は櫻鯛や天然鯛、ヒラメの粗の煮付けや澄まし汁、こんなご馳走は最高です。 昔から、魚は丸ごと買うのが常識でしたよ。 私は まるままは買えないときは優先するのは粗です。 スロウ生活の基本でした。 

写真は: 御前崎から直送の桜鯛とイサキ。 タイのタイ。 幼少のころのお嬢さんのタイのタイの写生。 

(つづく)


2006/7/20

4.天の恵み マヒ、アシタバ、や フキ

不幸中の幸い、脳の梗塞した場所が前頭葉でなかったようなので、言語、記憶については、もともとの自分の「脳足りん」のまま、残ってくれたのですが、指の先端のしびれ、指の曲がり、親指人差し指でさえ指折り数える動作も出来ない、洗面台で手を洗うにも左手では水はすくえない、石鹸も使えない、足は、約1ヶ月で杖を突いて立てるようにはなったものの、歩こうとすると、ビッコで右足側に倒れそう など、「五体不満足」だらけでした。 

それが満2年経った今、指の曲がりやしびれは、すこしは改善し、肩の痛みは取れましたし、階段を下りるときの不安は、手摺さえあれば感じなくなりました。 歩きも杖さえあれば、遅いながらも2kmくらいは平気で歩けます。 血管が詰まったところが、呼吸中枢があるという脳幹に近いので、あるいは命と引き換えに麻痺を貰ったような気がし、考えようによっては、天からの授かりものと思って感謝しなければならないことかもしれません。 ありがとうと言いたくなります。

ただし、自分はそれで折り合いが付きますが、周りの人には負担が増え 迷惑をかけます。 病院は完全介護ではあるけれど日参する家内も大変です。 家族や兄弟や友人たちも、心配してお見舞いに来てくれるし、遠くからはお見舞いの手紙を貰います。 感謝しなければ罰が当たります。

入院中読んだ雑誌で、偶然、有名なピアニスト舘野 泉さんが、私の発病2年前、北欧の演奏会のステージで倒れられたと知りビックリしました。 私と同い年の舘野さんとは、数年前に北海道恵庭市で、地元の有志主宰のコンサートでの司会に私が狩り出され、一夜楽屋で過ごした思い出があります。

JALのPR誌で健康な舘野さんのご様子を伺ったりしていたので、まさか!と信じられませんでした。 ピアニストの右麻痺は致命的だと思いましたが、自分が退院してからインターネットであれこれ調べてみると、今、両手でピアノをというのでなく、左手の音楽の喜びを研究されているところで、きっと新しい舘野泉になってカムバックをなさるであろう、との情報を得て、その生き方に感動しました。 また、今の私にとっても大きな力付けになりました。 そして昨年、見事に「真面目(しんめんもく)」のカムバックをされたのは、ご存知の通りです。

その後も、巨人の長島監督、コメディアンの坂上二郎さんなど、次々に同病で倒れられる方が続き、懸命にリハビリに励んでおられるご様子を目の当たりにして、挫けそうな自分を励まします。

退院して改めて ああ生きて帰れたのだ!と猫の額ほどのわが家の庭を見回すと、いつの間にか昔 新島で苗を分けてもらったアシタバの株が増え、大きくなり毎日のように新芽が摘めます。 この頃はスーパーや八百屋さんでもアシタバを見かけるようになりました。 成長が早く、明日葉とも書く元気が出る植物です。 新島で民宿に泊まると、朝は味噌汁に夕食にはお浸しにと出てくるように、すぐれた野菜並みです。 

その昔、仕事のため新島の秋に1ヶ月も駐在したことがあります。 夕方になると、針が沢山付いた仕掛けのさおで船着場の岸壁から小あじがバケツ一杯取れました。 民宿で から揚げにしてもらい、明日葉の天婦羅とで、皆で宴会になったものです。 明日葉は、秋口に にんじんの花 に似た花が咲き、それに小さな平べったい実がなり、触ると弾けて実が地面に飛び散ります。 

春になるとこの実から、小さな芽が出て大きくなるのです。 半日陰でも畑でなくとも育ちますから、木の間にでも植えておくと楽しいものです。 是非試してください。 新島では畑に植えるというより山で取ってくるのが一般的です。 

夜のラジオ番組を聴いて朝早いときは、リハビリを兼ねて自分で朝食の味噌汁を作ります。 明日葉とたまねぎやジャガイモ、大根など、冷蔵庫などにある野菜を具に入れます。 たまにはスープにしたいときは、明日葉とたまねぎ、セロリなどを具に、スープストックを1個入れます。 ベーコンのあまりなどがあれば最高。パン食にも合います。 

夕方、家内は明日葉、蕗、お茶の葉などを天婦羅にします。 偶には庭の しその葉(関東では おおば と言うのでしょうか)も入れます。 お浸し、白ぬた、刺身のつま、などいろいろな料理が出来ます。小さい、猫の額(英語でも“狭い”というのを“cat’s brow”というらしいのですが、面白いですね)の庭に、蕗まで生えているのです。 昔建築屋が山から埋め土を持ち込んだ際、一緒についてきたらしいのです。春先に蕗のトウの天婦羅、夏まで蕗の茎煮などが楽しめます。 

お茶は数本の狭山茶が植えてあります。 お茶にするほどないので 天婦羅にする方が多いのです。田舎育ちだから、こんな生活が似合っているのかもしれません。 だから、2人だけの生活だと、夏の間は たいてい 野菜は買わずに間に合いますから、スロウニン生活には助かります。 これも片麻痺と一緒、天からの贈り物と感謝しなければなりません。
(つづく)


2006/7/7

3.ビワの葉のお茶

退院が近い頃、麻痺した右肩の痛みがだんだんひどくなってきました。 寝てもさめても痛いという感じなのです。 外側が痛いのではなく、肩甲骨の中のどこか奥の方のようだが、どこか分からない、肩にズブッと麻酔注射でも打ってもらったら楽じゃないかというような気がする痛さです。

そこで、何か良い改善方法は無いかと、痛みに関する本を漁ってみると、案外ないのです。 確かに痛みというのは千差万別で、捕まえようがないのかもしれないけれど、それでも「自分でできる“痛み”のリハビリ」という変わった名の本が見つかりました。

早速取り寄せてみると、川崎にある見慣れた関東労災病院の勤労者リハビリセンターのスタッフの先生方が書かれた新書版の本(中災防新書、900円+税)で、患者のリハビリの側面からみた、患者が理解できる程度の痛みの原因や対応が、痛みの部位にわけて書かれた珍しい本です。

読んでみると、例えば肩はとても微妙な構造を持っていて、沢山の骨と筋肉が組み合わさって微妙なバランスで、あらゆる方向に動くので、どの部分が麻痺しても、硬くなった筋肉同士が刺激しあって痛むのだといいます。 この痛みは、退院して通院リハビリになっても続き、2年目になろうかという時まで治まりませんでした。 時々箱根の温泉や弘明寺のみうら湯に連れて行ってもらったりして患部を温めてやるときは、多少痛みが和らぐのですが、冷めるとまた痛み、冬の間中続きました。

それが2年目になってやっと痛みが取れてきました。 これから書くビワの葉茶のお蔭かどうか分かりませんが、痛みはすっかり忘れています。 麻痺は取れませんが。

痛みが続くこんなときに、ある雑誌で「ビワの葉療法」という記事を読みました。 その中にも書いてあったのですが、何と3000年の昔から、ビワの葉を治療に使っていたという話です。 子どもの頃、祖母から聞いたことがあるような気がします。 奈良時代の光明皇后(聖武天皇妃)が、施薬院でビワの葉で病人を治したといわれている話です。

早速 田舎の叔母の裏庭にあったビワの木を思いだして、葉を送ってもらいました。 ビワの葉は表がつやつやしていて、裏側には白いビロードのような産毛が生えている比較的大きい硬い葉で、昔の家にはたいてい庭先にビワが植えてあったものです。 あるいはこの薬用の話の名残かもしれないと思いますが、港南台や洋光台など新しい街では見かけないものの、JR大船駅の京浜東北線のホームから見える商店側の裏庭に大きなビワの木が見えます。

大船のびわの木

先ずビワの葉茶を試してみました。 鍋に2リットルくらいの水を入れ、その中に洗ったビワの葉12〜3枚を料理バサミで2〜3センチ幅に切って入れて煎じます。 およそ2〜30分煎じて お茶の色が褐色に変わったら出来あがりですから簡単です。 多少白いアクのようなものが浮かぶこともありますが、害は無いが気になるようなら除きます。 私は茶漉しのような目の小さいお玉で掬い取ります。 100円ショップにあります。 お茶にするのだから、葉は生葉でも乾いた葉でも良いので葉は乾いても大丈夫です。

このお茶は気になる匂いもなくすっきりした味で違和感なく飲めます。 というよりコンビニで買うお茶よりむしろ美味しいと言うと怒られますかな?

水代わりに、このお茶を飲んで1週間もすると、何か肩が軽くなったような気がしました。 薬なら、治ると言うと薬事法に触れるかもしれませんが、お茶だから、たかがお茶だと思ってやってみてください。

奥さんが膝が痛いという友人や、私と同病で肩が痛いという人にも勧めて喜んでもらいました。 お茶話になること請け合いです。

なぜ利くかと昔から研究されているようで、現在ではアミグダリンという成分が含まれている、と考えられているそうです。 この成分は暖めると血液を弱アルカリ性に変化させるといい、健康に良くない酸性に傾いた血液を浄化するらしいのです。 だから、きれいにしたビワの葉のつやのある面を患部に当て、その上からこんにゃくを湯で温め、タオルで包んだものを乗せておくと痛みが取れるという療法もあるそうです。 じきに葉が乾くので、葉の上からラップをかけておくと良いようです。私は、面倒なので、こんにゃくでは試していませんが、火であぶった葉で直接肩をなでてみました。 

ほとんどおまじないのようなものですが、いわしの頭も信心からといいますから、無駄ではないと思います。 この方法はれっきとした研究者が専門的に治療をなさっているといいますから、こんなことを言ってはいけませんね。 でも1回2回じゃ駄目ですよ。 ビワの葉を送ってくれた90に近い叔母は、残念ながら3月末に心臓発作で急死してしまいましたが、生前、叔母もお友だちと、私の教えたビワ茶を楽しんでいたようです。 叔母の話では、田舎の人にホワイト・リカーにビワの葉1kgばかりを漬け込んで、梅酒のように水で割ってのむ人もあると言っていました。 砂糖は入れないそうです。 

悪友たちは、私が倒れたことを聞いて、皆自分にも心当たりがあるらしく「前兆があった?」とか「原因は?」と聞いてきます。 その気持ちは良く分かります。 飲兵衛だった私に「酒の所為だ」と言わしたいのでしょうが、酒の名誉にかけて言わないことにしています。 メタボリック・シンドロームが言われる前でしたが、肥満で、血糖値が高くて、血圧要注意だったので、この原因は確かに「酒が好き」ということでしょうが、脳梗塞の直接的な原因は「水抜きドライ・サウナ」だと思いたいところです。 

私は「ビワ酒」にしたいのですが、周りの連中は、「飲みたいからだろう?」と言うのでかないません。 発病2年目を迎えた今、180ミリ・リットル(1合というと少なすぎる?気がするから)の日本酒(以前はウイスキーや焼酎、ビールだった)をなめるように嗜んでいるのですが、気を緩めると本家帰りをすると自重はしている積もりです。    (つづく)


2006/6/19

2.絵でも描かなきゃ「うつ」になる

冷静になって考えると、倒れて二日は右の手や足はまだ動いていました。ベッドの中で「軽くて助かった」と思ったくらいです。ベッドの脇の柵に手をかけて、握ることも、力を入れることも出来たし、右足で掛け布団を蹴って掛け具合を修正できたのです。 だから、1〜2週間で退院できるのじゃないかと、看護師さんに聞いて、笑われたりしました。だが、徐々に右麻痺が自覚されるようになり、3日目には右足が何か重くなりました。 
左手で描いた「あじさい」

2週間、点滴だけで何も固形物は食べないから「大」はほとんど無く、出るのは「小」だけです。 だから車椅子乗せて貰ってさえトイレに行くことが大変な時期に、かえって助かりました。うがった言い方をすれば、点滴だけという効用は、そこにもあるように思いました。

さすがに、2週間点滴だけが続くと固形物が欲しくなります。だが、いきなり米の飯と思っても、そうはいかないのです。2週間経って、ゲル(どろどろの粘液状)にした食事が許されました。「嚥下障害(飲み下しの障害)」の有無が未だ解っていないからです。事実、時々急いで飲み込もうとすると、飲み込むタイミングが合わずむせることがあります。 

食事制限がいやなので、人には気づかれないように誤魔化すのですが、看護師さんは見逃さないのでしょう。粒の無い粥状のお米食、緑色のほうれん草らしい液状おかず、お魚らしい白身のおかず、みなペースト状のどろどろに卸してあり、まるで離乳食です。毎食、同じものに見えてきます。

だが、「食堂部」の心遣いは大変なものです。毎日、毎食の個人のメニューに書いてある通り、見た目には同じゲル食も、メニューは変わっています。病状に多少ゆとりが出来た患者さんには、基本メニューの中の選択肢のアンケートがとられ、ある程度の個人の嗜好に応えようとしているし、また、七夕や病院の創立記念日や旗日には、心のこもった記念メニューに、小さなお祝いのコメントが、お盆に載せてあったりします。

病人には、こんなことが 殊更嬉しいのです。このようにして、毎週月曜日の体重測定日には看護師さんがベッド脇まで体重計を持ってきて、身体を支えて測定すると、見る見る体重が減っているのが分かります。健康なうちに点滴をすれば良かったのに !冗談も言いたくなります。

左手で描いた紙芝居「モーツアルト療法」ゲル食が始まると同じ時期に、リハビリが始まりました。昔は 脳卒中で倒れた人は、「絶対安静」といわれて身体も頭も動かさないようにしたのを見聞きしたものです。今はできるだけ早く、麻痺した部位も積極的に動かすリハビリが、進められます。ボランティアの制服を着た人が 予定の時間に病室に迎えに来て車椅子に乗せられ、リハビリ棟に運ばれ、言語のリハビリに言語聴覚士 身体の麻痺に対するリハビリに 理学療法士、作業療法士など、たくさんの人の力を借りて、機能回復が始まります。 

点滴をつけたまま 歩行訓練。平行棒に掴まっても 立つことも出来ません。優しくされればされるほど惨めな自分に打ちのめされます。予約時間に沿って、次から次へと患者さんが出入りしますが誰一人同じ症状の人はいないのです。まるで言葉を失った人もあります。記憶が無い人もいます。自分だって何が失われているかは、徐々に調べないと分からないのです。だから指導は勢いマン・ツウ・マンで、指導してくれる先生は決められます。 

後で聞いたことですが 私の梗塞部位は脳幹に近い「橋(きょう)」という、脳から神経が左右の身体に交差する部分だそうです。だからか手足の右麻痺と右側麻痺による顔面、舌など筋肉制御機能の障害がありました。私の場合、右顔面がたれて右目ウインクも出来ません。言語のリハビリの先生から与えられる「タ パ カ」の発音に多少障害はありました。 

いままで経験したこともない猛烈な便秘に襲われたのもこの頃で、必死の思いでやっと出たのが、ピンポン玉大の硬くて大きい 数個でした。 また、同室の人も経験したのが原因不明の腹痛でした。 七転八倒しましたが 一晩 湯たんぽで暖めたら直りました。これも右麻痺 特に内臓が右麻痺に関係しているのではないかと、素人考えをしました。が、お医者さんはそんなことは無いよと言います。でも医者は、右麻痺を経験したわけではないから未だに信じられません。 

入院後1ヵ月、内科病棟からリハビリ病棟に移り、嚥下障害が無いとの主治医の判断で、ゲル食から刻み食になりました。ご飯はお粥、副食はすべて丁寧に刻まれています。これがまた、2週間続きました。その頃から、自分にとっては麻痺の機能回復そのものより「気の持ちようの改善」の方がキーではないかと思い始めました。年寄りだから、機能が不十分になって嘆くより、生きがいを失う方がこわい、と思ったのです。
紙芝居「モーツアルト療法」の「かたり」

そこで、家からスケッチ道具を持ってきてもらい、おぼつかない左手で 字はまだ読めない可愛い孫息子におじいちゃんの病気の話をするつもりで、小さい「紙芝居」を描き始めました。 紙芝居を束ねたとき、見せる絵の面の話が 読み手の目の前にあるように作っていく工夫も考えなければなりません。ストーリーも考え、左手で絵も描かなければなりません。病後の危険の一つは「病後うつ」ではないかと私は身をもって感じますが、この「紙芝居を作る」というリハビリ・アイディアはこの面でも成功だったような気がします。

絵は病室で 左手で描いた「あじさい」と 病室で 左手で描いた紙芝居「モーツアルト療法」の「絵」と「かたり」

                                        (つづく)


2006/6/1

1.はじめのころ
 
新聞によると 先ごろ製薬会社ファイザーがインターネットで、脳卒中に関してて40歳以上の男女600人の調査をしたそうだ(朝日新聞5月6日)。

その結果 45%が家族や同僚・友人に脳卒中になった人がいると答え 自分が患った場合の心配ごとは 「後遺症」が53.7% 「介護家族への負担」が25.0% 「介護や治療での金銭的な負担」が13.8% と続いたという。

これは大変な問題である。 およそ半数近い人が身近に、この病気を見聞きしているのだ。確かに 私が南部病院に入院していたときも、見舞いに来てくれた人の多くが「私の兄が」とか「私の父が」といっておられたことを思い出す。

脳卒中は 脳梗塞や脳出血の総称であるが、こんなに身近で苦しみ多い病気となると、日ごろから気を配って、予防をすることが大切だと 反省仕切りである。私には病気になった今ごろになって、気が付いても遅いが「反面教師」として 闘病体験なり 闘病生活なり の日々の生活に起こることを、書き留めてみるのも何かお役に立てるのではないかと思う。

言うまでもなく アンケートにあるように この病気の最大の恐怖は「後遺症」である。入院中も 毎日のように運びこまれる患者さんがあり、また通院リハビリにと退院していく人も次々である。お医者さんも看護師さんも病院スタッフの方々も 文字通り医療にリハビリに 献身的に対応されておられる。本当に頭が下がる思いである。

私が発病してから満2年になる。発病前まではいわゆる肥満体で、身長165cmは我々世代では普通だが、体重は85kg 近くの医院の血糖を抑える薬を服用していた。また 運動が欠かせないので夫婦で港南中央のスポーツクラブ・ルネッサンスに通っていた。プール内で歩き、泳ぎ、サウナに入る、をユットにしていた。1ユニットで約1.5kg減量するのが楽しみであったが、後で解ったがこれが落とし穴だったのである。水分を多量に補給するのが正しかったのだ。

その日 久し振りに親しい友人たちと新橋で会うことになっていた。夕方約2kmの上大岡まで歩いていつもの京急・地下鉄で行った。
何時もの料理が旨い親しい居酒屋の小部屋で酒を酌み交わした。あまり飲まないうちに 私が酩酊した格好になったらしい。酒には酔わない私だったので友人は変だと思ったらしいが2次会に行こうと 肩を組んで外へでた。自分には肩を担がれていると解り 話しかけられる言葉も分かる。それでいて立てないし、自分の言うことが友人に通じない。

結局2次会は止め、タクシーに乗せようということにしたらしく 友人の一人と タクシーで一時間 洋光台に帰ってきた。道順は 自分が動作で知らせて何とか玄関先に到着した。担ぎ込まれると 妻が「お父さん 変。左はいいけど 右目が他所を向いてる!」 
すぐに南部病院に電話をしたら「すぐ自家用車で来なさい。救急車は時間がかかるかもしれない」 すぐにCT検査。点滴がはじまった。

後で分かったことだが 日本では当時未認可の薬PTがあるそうだ。一時間以内なら 血栓を溶かすことが可能だと言う。アメリカで劇的に麻痺が改善されるビデオが紹介された。日本では 東北で使用例があると後でインターネットで知った。

こうして私の入院生活が始まった。幸か不幸か、長年払っていた入院保険があったので、経済的には打撃は少なかった。入院同室に私より10歳も若い方がおられた。どちらも年老いたご両親が健在ではあったが、これから面倒を見る立場。やりきれない思いであったろう。深夜ベットで啜り泣きが聞こえたりすると、こちらももらい泣きをしたこともあった。

編集室より
はたと周りを見渡すと、本当に脳梗塞の話をよく聞きます。実は私の父もただ今リハビリ中だったりします。人事とは思えませんが、その後の暮らし方は人によって大きく違いますね。どんなことがあっても前向き前向きに生きていきたいものです。

 

 
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